250余年のあゆみ

明治~大正

繁栄から試練への明治・大正期

瓢箪屋薬房の正面

写真:瓢箪屋薬房の正面

試練の明治期

1868年、260年続いた鎖国が解かれ、世は明治となり、江戸は東京と改称されました。医療も西洋化が模索されましたが、庶民の生活では未だ和漢薬への依存度が高かったようです。

このような中、「瓢箪屋薬房」は好業績を上げていました。明治11年(1878年)、東京市の売薬番付である「妙薬一覧」には、「神功丸・白井正助」が大関クラスでランクインしています。

「小児神功丸」「人参梅花香」の薬袋(明治18年/1885年)

写真:「小児神功丸」「人参梅花香」の薬袋(明治18年/1885年)

明治22年(1889年)の薬律によって全国的に薬種商や薬局が整備されたことに伴い、当薬房の販売も卸商と一括特約をする等、販売網を地方へと拡大していきました。

しかし、業界の過当競争が激化し、粗悪品の安値乱売も加わり、業績は次第に低下。加えて、明治15年(1882年)に公布された売薬印紙税は、業績不振に拍車をかけることになりました。

売薬許可証

この時期、巨大な富を有する一部の者と、そうでない多くの国民という“社会格差”が生まれ、多くの人が「一銭でも」「一円でも」安いものを買い求めました。

明治30年(1897年)、このような安値乱売に歯止めをかけるべく、取引先薬局を中心に「乱売矯正会」を結成し、適正価格での販売推進を試みました。この会は、メーカーと小売の共存共栄を意図したもので、将来のエスエスチェーン制度の先駆けとなるものです。

写真(左):四代目 白井正助、写真(右):五代目 白井正助

写真(上):売薬許可証
写真(左):四代目 白井正助
写真(右):五代目 白井正助

その努力にもかかわらず、四代目正助が南槙町に新築した家屋を、五代目正助の時に売却せざるをえない事態となりました。ただし家業は続けられ「六代目正助を襲名、幾多の波乱も切り抜け」との記録が残っています。

東洋医学から西洋医学への転換と庶民生活

明治維新とともに、政府はあらゆる分野で西洋近代化を推し進めました。医薬の分野でも、明治元年には「西洋医術の儀、是迄止められ置き候らえども、今より、その長ずる所に於いては、ご採用是あるべく、仰せいだされ候こと」として、西洋医学の採用を宣言しており、明治2年には、開成学校医学高、翌年には金沢、岡山、熊本、新潟に病院を設立し、医学校が付設されました。

このように、西洋医学とこれにともなう薬(洋薬)の採用は進められたものの、これが普及したのは、明治30年代以降のことで、東京市内でも漢方医は依然として多く、和漢薬への依存度も高かったようです。

大正時代の店舗

写真:大正時代の店舗

家業再興・波乱の大正期

1912年にはじまった大正時代には、六代目正助の再建努力が実ります。製造の本拠地を新たに東京市荏原(現在の品川区)に置き、和漢薬に加え化学合成薬の開発、製造を行いました。また、全国的販売網が整備され、大きな成果をあげはじめていました。

このように着々と再興を進めていた当薬房でしたが、第一次世界大戦終結後のデフレ波が押し寄せ、また同時期に関東大震災が発生し、東京荏原工場は大打撃を受け製造不能の状態に陥りました。

六代目 白井正助

写真:六代目 白井正助

この緊急事態を、大阪出張所を足がかりにした製造体制で乗り越えましたが、デフレは依然解消せず、黒字倒産にすらなりかねない状態となりました。なお、大正3年(1914年)には新しく売薬法が公布され、薬剤の販売が薬剤師にのみ限定されました。このことは、大衆薬(OTC医薬品)に対する社会的、科学的評価に繋がり、社会から信頼を獲得していく大きな出来事となりました。

大正時代の薬業会の動き

大正時代の製薬業界は、洋薬、つまり医療用医薬品は明治期に続いて輸入依存度はまだ高いとはいえ、化学合成薬国産化の動きは、徐々に高まりつつありました。この国産化の動きを急速に加速させたのは、第一次世界大戦でした。当時、最大の輸入国だったドイツからは、開戦と同時に輸入が途絶したことから、国内需要は国産品で賄う以外に道はありませんでした。 政府も開戦の翌年、大正4年(1915年)に、「染料医薬品製造奨励法」を公布し、この国産化の動きを支援しました。このような時代背景もあり、大正時代前半の医薬品業界は活況を呈したのです。