250余年のあゆみ

昭和60年~平成8年

海外メーカーとの新たな提携

当時の主力製品

写真:当時の主力製品

海外拠点づくりへ

昭和60年(1985年)、当社はさらに大きく成長することを目標に新年度のスタートを切り、6月には医療用薬品をOTC医薬品に転用するスイッチOTC薬の当社第1弾として水虫薬「ソルジャー」を、12月には第2弾鎮痛解熱剤「イブ」を相次いで発売し、エスエス製薬の開発力が高く評価されました。また10月には富山工場を竣工し、完成に合わせて「ラカルト・ニュー5」のほか、軟膏坐剤の生産を移管しました。

昭和63年(1988年)、当時は、莫大な研究開発費を投じて新薬開発に成功しても、ヨーロッパやアメリカの市場に進出しない限り、開発コストの回収すらおぼつかなくなると認識されていました。一方、外資系も本格的な日本市場参入に積極的でした。当社も、この10年程前からアメリカのレブロン社、ドイツのアナスコ社と提携してきましたが、この年、さらにアメリカのアイバックス社と資本技術提携し、開発力の強化と海外拠点づくりを行いました。一般用医薬品部門では、この年、イタリアのミラノ大学が開発した新発毛促進剤「パンフォルテン」、ドイツに本社拠点を置くベーリンガーインゲルハイムから導入した日本初のいびき抑制剤「アンスノール」といったユニークな新製品を投入し注目を集めました。
医療用医薬品部門では、外用鎮痛消炎剤「インサイドパップ」、抗喘息剤「フルブロン」の2大大型新薬を上市し、MVIシリーズと併せて3本柱で拡販を目指しました。

海外メーカーとの提携

図:海外メーカーとの提携

平成元年(1989年)、時代は昭和から平成へと変わり、医薬業界はさらに、世界的な規模でものを考え進めていかなくてはならない時代になってきていました。当社ではアメリカのアイバックス社に続き、ドイツのヌトリケム社との資本提携、アジアでは韓国の海東製薬に出資し、海外の拠点づくりに力を入れました。

医療用医薬品部門が100億円突破

平成2年(1990年)、医療用医薬品部門は「フルブロン」に力を入れ、100億3100万円とはじめて売上を100億円の大台に乗せました。また、生産部門の無人化・合理化、新たな研究棟、物流センター用地、情報システム、人材育成など150億円以上の投資計画を策定。製品では、前年発売の「エスファイトゴールド」が売上に大きく貢献しました。

平成3年(1991年)、医療用医薬品では持続性鎮痛・抗炎症剤「ナボールSRカプセル」を発売。また、6月には代謝研究、合成研究のための最新設備を整えた新中央研究所が落成しました。
平成4年(1992年)、「世界で通用する研究開発型の総合医薬品メーカー」になるために、OTC医薬品以外に、医療用医薬品分野でも大きな経営の柱を打ち立て、さらに健康関連ヘルスケケア部門もその基礎を確立することが課題となりました。この年、医療用医薬品の新薬として外用副腎皮質ホルモン剤「エクラー(軟膏・クリーム)」、独ヌトリケム社と提携の経腸栄養剤「ハーモニックM」を発売。OTC医薬品では、イブプロフェンを日本ではじめて配合したかぜ薬「エスタックイブ」を発売。「エスタックイブ」は発売と同時に注文が殺到する好調なスタートを切りました。

平成5年(1993年)、医療用医薬品では抗真菌剤の新薬「アトラント(クリーム・液)」を発売。アトラントは中央研究所で開発された新規化合物「塩酸ネチコナゾール」製剤であり、新薬の研究成果が実った製品です。
平成8年(1996年)、当社の筆頭株主であった金融機関が経営難に陥り、ベーリンガーインゲルハイムとの資本提携が進められることとなりました。

ベーリンガーインゲルハイムとの提携

平成9年(1997年)、日本ベーリンガーインゲルハイムは、この時点で、当社の筆頭株主(持株比率9.2%)となりました。従来より当社と取引関係にありましたが、これを機にさらに提携が進みました。そしてこの年早くも、ベーリンガーインゲルハイムの胃液分泌抑制型胃腸薬「ガストール(細粒・錠)」や胃腸鎮痛鎮痙剤「ブスコパンMカプセル」3品目を発売しました。

「ガストール細粒」発売

写真:「ガストール細粒」発売

同年10月には、ヘルスケア部門の充実を図るべくFHB(ファインヘルス&ビューティー)事業部を、新たな6兆円市場に期待を込めて新設しました。こうして医療用医薬品部門、一般用医薬品部門、そしてFHB部門の3本柱で組織を整えました。

「ブスコパンMカプセル」発売

写真:「ブスコパンMカプセル」発売

同時に30億円を投じて「薬粧情報システム」をスタートさせ、取引先からの情報を営業・生産・研究開発へ直結し、顧客ニーズにマッチした新製品の開発ときめ細かい営業戦略の展開を図りました。また、時代の流れとしてドラッグストアなど量販店との取引を積極的に拡大し、次第にそのウェイトを高めていきました。

当時のピョンちゃん